こんにちは!
「何とかなりませんか?って言ったら、選択肢をいっぱい持っているんですよ。経験値と経験則と人脈のバランスがすごくいいんですよ。」と、言われる、岸 友和(きしともかず)です。
「自分の生活にゆとりができることで、気分的にも精神的にも余裕ができるし、そこが一番良かったことです。」
なぜ、わたしがこの仕事をしているのか、その理由(わけ)を聴いていただけますか?
「あれも食えこれも食え」父親との関係
父は建築板金の仕事していました。仕事一筋で、土曜も日曜もなく仕事していました。
基本とても怖い父で、怒ると逆上するタイプ。
漫画の巨人の星一徹の父ちゃんのような、ちゃぶ台返しみたいな事もありました(笑)
でも、外では社交的でした。職人さんの面倒を良く見ていたのも心に残っています。
昭和のお父さんの典型という感じで、当時のお父さんはみんなそんなタイプだったんじゃないかな。
もちろん父なりに、父親として家族を可愛がってくれましたよ。
烏ヶ森公園でキャッチボールをした事が印象に残っています。あと忙しい中、私の家族と仕事仲間の家族と海に旅行に行ったことは、忘れられない大切な思い出かな。
中学の卒業式の日にステーキ宮で、「これも食え、あれも食え。」ってどんどん肉を注文して、こっちは食べ過ぎでトイレで戻しちゃった (笑)。
子どもがご飯をいっぱい食べるのを見るのが、嬉しかったんじゃないかな。
今となっては私もあの時の父と同じように、私の子どもにお腹いっぱい食べてもらうと嬉しいんですけど。
昭和のスーパーウーマン 母親との関係
母は、父の仕事を一緒にやっていました。昼は父と一緒に現場に行って、重い材料を背負ったり父や職人さんの補助。夜は自宅で請求書づくりなどの事務作業。その合間に家事や子供の世話と、とても忙しい人でした。
でも、私の授業参観には必ず来てくれて、そういう家族に対することは、手を抜かない人でした。
授業参観に来てくれるのがすごく嬉しかったです。今思えば、すごいスーパーウーマンでした。
志もなく福祉に力を入れていた高校へ
高校は地元の高校に行ったんだけど、たまたま福祉に力を入れていた学校で、何の気なしに入学したんです。
福祉クラスと情報処理クラスがあり、福祉には全く興味がなく、選択したのは情報処理クラス。でも情報処理のクラスでも福祉現場の実習がありました。
障害者の作業所へ実習に行ったときは案外楽しくて、福祉と言うものに幾らか興味を持った気もします。
こんな世界、こんな仕事もあるんだな・・と。
けれど、当時はまだこれを仕事にしようという気持ちは全くなかったです。
「馬鹿野郎!何やってんだ!」家業の建築板金に就く
高校卒業後は、父の板金屋の跡を継ぐために父の会社に入りました。
子どもの頃から、父親の跡を継ぐって言っていたんですよ。でも、高所恐怖症で(笑)。
鉄骨の上とか、バランスを取らないと落ちる場所というのが、とにかく苦手で・・・。
屋根を敷くときに鉄骨の上を歩くじゃないですか。当時は安全ベルトとか義務化してなかったし・・・。
落下しそうになったことも、落下したことも一度や二度じゃありません。その時に怪我をしたこともあります。
何度もヒヤリとしたことがありますが、私以上に父のほうが肝を冷やしていたようです。
腐った屋根の解体中に穴が開いて落ちそうになり、鉄骨に掴まり宙ぶらりんになった事もあります。下はコンクリート。普段は冷静な父が慌てて腐った屋根の上を走り、父自身も何度も穴が開き落ちそうになりながらも必死に助けてくれました。
やっとのことで地面に下りると、「馬鹿野郎!何やってんだ!」という父の怒号が響き、その身体がガタガタと震えているのに気づいたんです。父は、私を育てるためにこんな大変な仕事をしてくれていたのだ、と思いました。
精神的にトンネル時代
友人たちとドライブ中に交通事故 私なりの死への恐怖
19歳の時、自家用車で友だちと夜ドライブに出かけて、うたた寝してしまってトラックの真横に突っ込む事故を起こしちゃったんです。
足を骨折して入院し、手術はしましたけど足の方はたいしたことなかったんです。搬送されて意識が戻った時は病院のベッドの上。全身も口の中にも車のガラスの破片だらけでした。気が付くと母が座っていました。意識を取り戻した私をみて、『よかった・・』と一言いい、泣き出しそうな、嬉しそうな、悲しそうな安堵したような顔をしていたのを覚えています。その時、ものすごく申し訳ない気持ちになりました。
その後の入院生活では、看護師さんや同年代の看護実習生達や歳が近い入院患者さんといろんな話をして過ごしました。
その入院の半ば頃から呼吸困難みたいな発作が起きるようになってしまいました。
たぶん心因性の発作だったと思うんだけど、当時は何度検査しても原因がよく分からず。20歳の誕生日も病院で過ごした後、母が来た時に医師は母に『息子さんの発作はそのままです。治りません』と言いました。私も横にいて聞いていたので『治らないんだ・・』と。
退院した後も調子が悪いから、母がいろんな病院に連れていってくれました。この時はつくづく母親の存在を心強く感じました。
今でいう、パニック障害みたいなものだったんです。
でも、当時はそういう病名は知られてなかったし、とにかく息が吸えなくて苦しかった。
最初の発作は入院中に出たんだけど、「吸おう吸おう」って思っても苦しくて、呼吸困難状態。
そういう発作が、ひどい時は1日に7~8回ぐらい起こるんですよ。
それで、退院しても治らないから仕事もできないし、1年くらいその状態を繰り返して、誰とも会えずに引きこもり状態でした。
呼吸も出来なくて、もちろん息が吸えないから苦しくて・・・ いつも寝不足でした。
そして何度も夢を見ました。
息が吸えなくなり、何度も暗闇の渦におぼれていく夢を。もう普段から夢か現実なのか、わからないくらいの発作でした。起きてても息が吸えないし、寝ても息が吸えない。そんな日常でした。
そんな呼吸苦の毎日なので自然と『死という恐怖』を私なりに感じました。
将来って言葉もありませんでした。当時はリアルに死の恐怖。寝ても息が吸えない死の恐怖。夢の中では常に光も全くない闇の中で息が吸えず・・
だから祈るしかなかったです。
苦しくて誰にも助けを求められないから、発作時に心で『助けてください。誰か助けてください』という弱い私。
反面『苦しいのは自分だけじゃない。世界ではもっと辛い人がいるはずだ』と言う生きるための想い。
でも何度乗り切っても、気が付くと何度も涙流してました(笑)
あの時の私はかなり辛かったんです。
忙しい母がいろいろ病院に連れていってくれるけど、当時は原因が分からないから、申し訳ない気持ちでいっぱいで、それも葛藤で・・・。
こんなに迷惑をかけるなら、自分は生きる価値がないんじゃないか、という風に考えるようにもなってしまって。
とにかく辛かったです。だから死への恐怖もありましたが、無価値の私がこの世界から消えるような方法を何度も考えました。
後々症状も改善していくんですけど、死の恐怖と助けてほしい気持ち、そして、死への思い。生きるための私の価値、無価値への葛藤、私以上に苦しい人へ何かできないか・・・ 私が役に立つのか・・・
その頃の私自身は、表情がかなり乏しくなっていました。そこで一人で鏡を前に笑顔の猛練習をしてました(笑)
マイナスがプラスに!生きる道発見
それでも、時間とともに症状は回復してきて、もともと向いてないと思っていた建築板金の仕事は辞めました。
私の病気が回復してきた頃、夢の内容が変わってきたんです。
死ぬ夢から、老後、誰もいないで縁側に一人座っている私の夢を何度もみました。
死の想いから『生きる』に変わってきた頃、誰でもいいから人の役に立ちたい、一人でも多くの孤独者を救いたい、自分と同じ境遇の人の助けになりたいと考えるようになりました。
死を感じた時期は、未来への希望を失った時期で、私の生きている価値を見出せなかった。
回復してきたあと、生きるという言葉と共に、無価値の私に何か出来ないか?無価値な私でもできる事は何か?自分の経験が活かせないか?私以上に苦しい思いをしている人はごまんといるんじゃないか?と意識が改善してきました。
そんな時期に、なんと精神科の看護助手を募集していたのを見つけたのです。わたしはその仕事をするようになりました。
福祉の学校へ 2年間 資格取得
精神科の現場で看護師さんの指示のもと働きました。その中で、症状が小康状態でも何十年も入院している、いわゆる社会的入院をしている患者さんの多い事。様々な患者さんと話して、カルテをみて過去を知り・・
そこからいろんな人生があることを知りました。そこに相談業務として携わる職種(精神科ソーシャルワーカー)の仕事をしている人もいて、私も相談の仕事をしたいな、と思うようになりました。
でも無資格だったので、精神科の相談員の仕事をしようと、専門学校に通うことにしました。
精神保健福祉士っていう国家資格があるんですが、主に大学を出た人が取得できる資格です。
今から大学へ行く余裕もなかったので専門学校に行き、社会福祉主事任用資格っていうのを取得し、2年間現場経験を積むと、社会福祉士っていう国家資格の受験が出来るんです。
社会福祉士国家資格を取得すれば、高卒出の私でも、半年の課程で精神保健福祉士の学校に通えば、受験資格を得られることが分かったので、いったん看護助手の仕事はやめ、アルバイトをしながら家から学校へ通いました。
社会福祉主事任用資格を取って、老人病院で相談員として現場経験を積むために働きだしました。
その頃からです。高校までは全く勉強に身が入らなかったけど、猛烈に、睡眠時間を削ってでも勉強しだしたのは。
そうして、現場経験を積み、今度は社会福祉士という資格を取るために仕事の合間に試験勉強をして試験に合格しました。
精神関係の資格を取得するため 再度千葉の学校へ
最終的には精神的な病気になった方や孤独な人の助けになりたかったので、精神保健福祉士という資格を取るために、千葉の学校に行きました。
その時は、結婚もして、妻は妊娠中だったのに千葉までついてきてくれて、平屋のボロい貸家で暮らしていました。
卒業後も、精神科関連の仕事が見つからず、子供も生まれるという状況でした。
家族のために、いつまでも勉強ばかりもしてられません。
妻に、「もっと子供のことや家のことを見てほしい」と言われたこともあります。
その頃も妻には大変な苦労をかけてましたし、今もかけてます。感謝しかありません。
「ママ苦労かけたね」
法人「わんだふる−ライフ」を立ち上げ
その後「みやスマイル」という高齢者施設で働くようになって、ケアマネジャーの資格を取り、経験を積ませてもらいました。でも、それでも私の力が全く足りないんです。もっと人を救いたい、助けたいという思いから、「弘徳会」という訪問診療がある医療法人で働き、さらにたくさんの病気の方と出会いました。別れも多くありました。障害者、難病、末期がん、虐待・・・。
そして、その中でもたくさんの無力さを感じました。だから、社会福祉士会で成年後見人の養成研修を受け、専門職後見人になりました。自分を高めるために。自分を高め、もっといろんな人を救えるように。
笑顔がでない程の辛さの人にもニコッとしてもらえるように。
現在は、トータルにサポートできるよう一般社団法人 わんだふる-ライフを立ち上げました。
なぜ、わたしがこの仕事をしているのか、その理由
高校の時に、福祉に力を入れていた学校に行ったのは、楽に卒業できそうだなという安易な思いからでしたが、その時に実は「この道に行く。」という福祉の種をまいていたんだな、と思っています。
そして、交通事故にあった後、当時の私には本当に辛かったけど、あの出来事と思いが今の自分を導いてくれたのだと、今は思えます。あの時から、私は、身体的精神的にダメージを受けている人の助けをしたいと思うようになりました。
あなたが、本当に辛かったら、人として生きる価値を見出してほしいんです。
一人でも。一人でも多くの人に価値を見出してほしいんです。
「転んで転んで転んで、どうしても起き上がれない時は私が助けます」
「人生の最後の時、あなたの人生がどうしても無価値だったと感じるようならば、そこで一生懸命に何とかしようとした私が居たことを一瞬でも思い出してください」
「わたしはあなたを本当の一人にはさせません」
たくさんの方のサポートをさせて頂きましたが、その中で 脳疾患で半身麻痺になったTさんという方のサポートをしたことがあります。
その方は前向きに将来を考えていました。「いつか自立して、自分で、給料をとりたい」と、夢を語ってくれました。
Tさんは、わたしと相談してひとつひとつクリアーしていきました。そしてついに半身麻痺でありながら仕事につくことができました。
また、Aさんという方は、進行性の病気が発症して、通院が困難になっていました。在宅療養をすすめることで、介護するご家族も、通院の負担を減らすことができました。
「岸さんは、"何とかなりませんか?"って言ったら、選択肢をいっぱい持っているんですよ。経験値と経験則と人脈のバランスがすごくいいんですよ。」
「自分の生活にゆとりができることで、気分的にも精神的にも余裕ができるし、そこが一番良かったことです。」
「手すりや杖につかまって歩けるようになったし、天気の良い暖かい日は家の周りを散歩しています。」
「岸さんに最後に出会えてよかった」
と、関わった方々がイキイキと笑顔になることが、わたしの喜びです。
これからも精進していきます。
最後に
おやじ、おやじの作った会社の建築板金の仕事を継げなくてごめんな。自分には、向いていなかったようです。おやじの仕事は継げない事を理解してくれ、「自分がやりたいことをやれ」と遠くで暖かく見守っていてくれたことに感謝します。
母ちゃん、家業の仕事で忙しいのに、姉弟を育てるのにも手を抜かず姉弟ともに立派な大人に成長させてくれました。母ちゃんのスーパーウーマンぶりの性分は、俺も引き継いでいるかも(笑)本当に感謝しています。
ママ、結婚してすぐの妊娠中や育児中にも「勉強」と言って千葉の学校に行ったり試験勉強したりと、あの頃も今も苦労かけっぱなしだけど、今までついてきてくれてありがとう。これからも宜しく。